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改革主義五カ條 敎理(Five Points of Calvinism)
宗教改革者ジョンカルバンはキリスト教綱要第2巻1章でアダムの堕落と反逆によって全人類が呪われて原始状態で腐敗したと強調した。
これがアダムの信仰を立証し実行させるものであった。アウグスティンは *高慢はすべての悪の始まり*だといった。
神様の御言葉を蔑視すると神様に対するあらゆる敬虔な姿勢が揺さぶられる。神様の御言葉を注意深く聞かなければ神様の威厳が我らの中からなくなり、神様に拝することも残らなくなるからである。
ですから、不信仰が堕落の根であったのである。即ち神様が土でかたどって創られたのにも関わらず神様と同等になろうと欲張ったのだからどれほどの悪行であるか!
アダムの反逆はただ単純な裏切りではなく、そこに神様に敵対する卑劣な侮辱が結合されていた。最初の人アダムとエバは神様に嘘と妬みと悪意があると叫ぶサタンのそしりにそのまま同意したのである。
最後に不信仰によって野望が生じた。この野望が頑固な不従順の母となった。その結果人は神様に対する恐れ敬うことを捨てて情欲のままに自分自身を投げ捨ててしまったのである。
2. 無条件的選択(Unconditional Election)
しかし、重要なことは神様が選ぶことは神様の秘密に属するのである。それを私たち人間は到底知ることができないのである。ですから多くの人の中から誰が選ばれたのかは誰も知ることはできない。
(1) イスラエルの民個々人の選択(詩78:67-68, 147:20)
イスラエル民全体を*主の割り当て* 或いは *主の嗣業*と呼んだ(申命記32:9; 烈王上8:51; 詩28:9, 33:12)。その中で多くの人たちが実際に契約から除外された。
神様が個々人に救いを施すだけでなく、その効力が未決の状態や疑われないように確実に救いを保障する(ヨハネ6:37;ローマ9:7-8; ガラテ7ヤ3:16)。
選択と捨て即ち遺棄である。選択は神様が堕落した人類の中で一部分の人を選択した意味である。
堕落した人類全体がアダムによって滅びたため神様はその御子イエスキリストを通して救いの道を開いてくださった。イエスキリストが救い主として世に来られたのである。
質問1) イエスキリストは全人類のために十字架で死んだのでしょうか?
質問2) それとも選ばれた人だけのために死んだのでしょうか?
神様が罪人を救うためにイエス様をどのように世に遣わされたでしょうか?イエス様は罪人を贖うために世に来られるときにただ選ばれた人たちだけを救うために来たのか?それとも全人類を救うために来たのか?
*ために*という言葉は原文で*代わりに*という意味だ。スポルジョン牧師は*十字架は神様の最高の考えであり神のすべての計画の中心である。神様の愛の最高峰が十字架*だといった。
神様が万民を救う計画でイエス様を世に遣わされたならすべての人が救いを受けるべきであるが、実際には神様の計画通り万民がみな救われない。万一神の計画が挫折するとその方はそれ以上神様にはなれない。
(1) *羊* (요10:11,15) 山羊ではない。我が主は羊のために死んだのであり、山羊のために死んだのではない。
(2) *その教会* (使徒20:28, エフェソ5:25-27)
(3) *自分の民* (マタ1:21)のために救われると証言する。
ヨハネは確かに宣言する。*その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた*(ヨハ1:12)。我が主も確かに言われる。
*神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい*(ヨハ14:1)。厳密に言えば信仰がキリストから御父へと上って行くが、しかしキリストの言葉はこのような意味も含んでいる。
私たちが現実的にも実際的にも制限された人だけが救われると見るとき贖罪も制限された証拠である。他の側面から考えてみると神様は絶対主権で救いを得る者と得られない者を神様が定めたのである。
4. 不可抗力的恩恵(Irresistible Grace)
罪人である私たちは神の恵みを少しでも要求する権利がない。神様の価ない恵みがなければならない(ヨハ6:37-40)。
聖霊様は抵抗できない恵みを与え選ばれた者を救われる。救いを受ける資格のない罪人に抵抗のできない救いの贈り物を与えたのである。これは全的な神様の絶対的行いである。(使徒9:6, 16:14)
悪の態度が突然止み、悔い改めた人たちが徳を積もうと努力する。自己満足に溺れた人たちが自分の無価値さを悟る。そして謙遜する。自分の堕落を諦め、神様に仕えることに幸せを見つける。
神様の聖なる目的と御旨に従って望んでいる人たちを定めた数を新生させるのである。生まれ変わること、即ち新生の恵みは有効的に呼ばれる恩恵と共に不可抗力的である。
宗教改革者ジョンカルバンは*だれも自分をキリストの羊にはできない。キリストの羊になるのは神の恵みによるものだ*と言われた。即ち神様の主権は失敗ができなく、必ず成就されていくものである。
5. 究極的な救い(Perseverance of the Saints)
究極的な救いを聖徒の堅忍という。人間の本性が悪であってもキリストは神様に出て行く者たちを完全に救うことが出来る(ヘブライ7:25)
(1) 一度救われたら永遠に救われる(ヨハ1:12; ローマ2:4)
(2) 誰も選ばれた民を神様の愛から引き離すことはできない(ローマ8:38-39; フィリピ3:6; ヘブル13:8)
ですから神様の偉大なる神秘を認めるべきである。そして神様の救いの恵みを称えるべきである(エフェソ1:14)
どうしてこれが可能であるか? これが神様の主権に属するからである。神様が選んだ民は神様の手の中にある。ですから、その民を奪う者がいないので神様の主権を掴んでいる人は最後まで守られるのである。
ですから、堅忍の恵みの確実性は神様の主権に基因するのである。
例え人が神様の恵みに協力したとしてもそれは原動力にはなれない。協力する力さえも聖霊様が与えることで可能になる。
イエス様の弟子たちの中でトマスも疑いが多かった (ヨハ20:25-29) 愛弟子と呼ばれるペトロも主を3回も否定した(マタイ26:70-75)
このような事実は選ばれた者たちであっても一時的な弱さがあるとのことである。しかしトマスはイエスを我が主我が神と告白した(ヨハ20:28)