改革主義五カ條 敎理(Five Points of Calvinism)
趙聖模 牧師
本文: ローマ8:29-34
改革主義の基本教理はまずカルバン主義(Calvinism)を意味する。カルバン主義者を改革主義者(Reformed People)という。カルバン主義とは改新教(Protestant)の中でも特に改革主義信仰の体系を言う。改革主義の基本教理は一言で言えば神様の主権である。では、神様の主権とは何か?全知全能であり永遠に不変で知恵のある神様が宇宙の中で行われるすべてのことを支配し統治することを意味する。
即ち、現在のことや将来にあるべき事件を絶対的に自らが干渉することである (歴代誌上29:11-12)。カルバン主義者であるミタ博士は *神様の主権*とは *神様の独自的行為*だと言った (詩127:1; コヘレト7:13)。では改革主義の5カ条教理を要約してみよう。
1. 人間の全的堕落(Total Inability)
宗教改革者ジョンカルバンはキリスト教綱要第2巻1章でアダムの堕落と反逆によって全人類が呪われて原始状態で腐敗したと強調した。
1) アダムの堕落の歴史が示す罪の本質
アダムに善悪を知る知識の木の実を食べてはいけないと言ったのは彼の従順を試し彼が神様の命令下にあることを立証させるためであった。神様が命の木の実を食べる限り永遠の命に対する希望を持つと約束され、反対に善悪を知る知識の木の実を食べると必ず死んでしまうと警告した。
これがアダムの信仰を立証し実行させるものであった。アウグスティンは *高慢はすべての悪の始まり*だといった。
神様の御言葉を蔑視すると神様に対するあらゆる敬虔な姿勢が揺さぶられる。神様の御言葉を注意深く聞かなければ神様の威厳が我らの中からなくなり、神様に拝することも残らなくなるからである。
ですから、不信仰が堕落の根であったのである。即ち神様が土でかたどって創られたのにも関わらず神様と同等になろうと欲張ったのだからどれほどの悪行であるか!
アダムの反逆はただ単純な裏切りではなく、そこに神様に敵対する卑劣な侮辱が結合されていた。最初の人アダムとエバは神様に嘘と妬みと悪意があると叫ぶサタンのそしりにそのまま同意したのである。
最後に不信仰によって野望が生じた。この野望が頑固な不従順の母となった。その結果人は神様に対する恐れ敬うことを捨てて情欲のままに自分自身を投げ捨ててしまったのである。
2) 罪の汚染
アダムが創られた方と連合してまたその方に捕らわれていることが霊的な命であったように神様から離れることは即ち霊魂の死であった。彼が天と地の自然秩序全体を腐敗させたので自身の反逆で自分の子孫を皆滅亡の道に引き込んだのである。パウロは*被造物がすべて ...うめき*(ローマ8:22) 虚無に服していますがそれは自分の意志によるものではない(ローマ8:20)と言っている。
このようになった原因と言えば被造物は人が使うようにと創造されたので人が受ける刑罰の一部を被造物が当然負うようになっていたのである。ですから、全世界に広がった呪いがアダムの罪から出たのでその呪いがアダムのすべての子孫に広がったのである。即ちこれがアダムの子孫が受け継いだ腐敗性であるがこれを原罪だと教父たちは表現した。
3) 原罪の本質と定義
原罪は本性の腐敗であり創造された本性の姿ではない。原罪とは霊魂のあらゆる部分に広がっているので私たちを神様の憤りのもとにおかれ、また聖書がいう*肉の業*(ガラテヤ5:19)を我らの中で行うので我らの本性を遺伝的堕落性と腐敗性の定義だと言える。
パウロはこれを指して自犯罪と言った。そしてそこから出るもの- 姦淫、わいせつ、好色、偶像崇拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争いなど(ガラテヤ5:19-21)を*罪の実*と呼ぶ。聖書はこれらを*罪*だと証言する。ですからここで二つのことを確かに知っておかねばならない。参考聖句(マタ21:27-32)
4). 罪は全人を腐敗させる。
アダムが義の根源を失ってから罪がその霊魂のすべての部分を支配したのである。パウロは人間の腐敗が一部分にだけあるのではなく霊魂の全体部分を汚したのである参照(ローマ3:1-20)。 パウロは肉のあらゆる思いがすべて神様と敵対する(ローマ8:7)肉の思いが死である(ローマ8:6)と証言する。
2. 無条件的選択(Unconditional Election)
カルバンは永遠の選択についてこう言う。ある人たちは救いに至るよう、またある人たちは滅びに至るよう予定されたと強調する。すなわち、もしかしてある人には救いが価なく施され、ある人には救いに入る道が塞がることは神様の命令に従って起きるのが確かである。
しかし、重要なことは神様が選ぶことは神様の秘密に属するのである。それを私たち人間は到底知ることができないのである。ですから多くの人の中から誰が選ばれたのかは誰も知ることはできない。
我らの周りにどんな罪人や悪人がいてもイエスを信じて救われるかは知れない。ですから私たちはいつも目を覚まして祈り、どんな時も伝道しなければならない。しかし、アルミニアン主義(Arminianism)はジョンカルバン(John, Calvin)の予定教理を反対する。彼らは人間の自由意志を強調する。
アルミニアン(Arminian)はオランダの神学者である(Jacobus, Arminius. 1560-1609)。アルミニアン主義は神様が選択した民であっても救いが取り消されることがあると主張する。しかし、カルバン主義は神様が選んだ民は究極的には救いを得ると主張する。アルミニアン主義の影響を受けた教会はオランダの自由教会とイギリスの聖公会、米国と散在する監理教会と浸礼教会、聖潔教会、聖霊派教会などである。
1) この永遠の選択を具体的に調べてみましょう
(1) イスラエルの民個々人の選択(詩78:67-68, 147:20)
イスラエル民全体を*主の割り当て* 或いは *主の嗣業*と呼んだ(申命記32:9; 烈王上8:51; 詩28:9, 33:12)。その中で多くの人たちが実際に契約から除外された。
(2) 個々人の選択
神様が個々人に救いを施すだけでなく、その効力が未決の状態や疑われないように確実に救いを保障する(ヨハネ6:37;ローマ9:7-8; ガラテ7ヤ3:16)。
イエスキリストがザアカイを呼ばれ救いを与えたのも条件のない選択である。彼もアブラハムの子孫となった(ルカ19:5,9)。神様の予定と選択は呼ぶことで遂げられる(コリントⅠ1:26)。それは福音を通して遂げられる。そして信仰の反応をもたらす。参照聖句(ガラテヤ1:6; テサロニケⅠ2:14)
人間が救われる存在として選ばれることはある条件や努力や功労によるのではない。アルミニアン主義では神様が人間の善行を見て選択したという。どんなに危険なことであるか?これは絶対的な神様の無条件的選択である。では、選択を正しく理解するために神様の予定を調べて見る必要がある。予定には二つの部分に分かれる。
選択と捨て即ち遺棄である。選択は神様が堕落した人類の中で一部分の人を選択した意味である。
即ち選ばれた人たちは神様が愛し喜ぶ者である(エフェソ1:4; コロサイ3:12; テサロニケⅠ1:4; テサロニケⅡ2:13参照)。選ばれた者たちは我らの主イエスキリストの再臨の日には苦難から逃れさせ(マタイ24:22) 四方から呼び集める(マタイ24:31)。
それでは捨てることは何でしょうか? 捨てることとは神様が御心によってある人には救いの恵みを施さないことを意味する。聖書的根拠は何でしょうか?(ローマ9:13-15, 17-18, 21-22, 11:7 )
3. 制限的贖罪(Limited Atonement)
堕落した人類全体がアダムによって滅びたため神様はその御子イエスキリストを通して救いの道を開いてくださった。イエスキリストが救い主として世に来られたのである。
カルバンはキリスト教綱要第2巻6章で*十字架の道が私たちの人間的な性向に合わないけれど私たちの主人であり創られた方である神様に戻ることを望むならば- 私たちが今まで遠く離れた状態であったその方に立ち帰って再び私たちの父になる状態を回復することを望むならばその道を謙虛に受け入れなければならない*と強調した。しかし、重要なことは贖罪の範囲である。では一つ質問をします。
質問1) イエスキリストは全人類のために十字架で死んだのでしょうか?
質問2) それとも選ばれた人だけのために死んだのでしょうか?
神様が罪人を救うためにイエス様をどのように世に遣わされたでしょうか?イエス様は罪人を贖うために世に来られるときにただ選ばれた人たちだけを救うために来たのか?それとも全人類を救うために来たのか?
これが問題の焦点である。改革主義の立場をまず明らかにするとキリストは選ばれた人だけを救うために世に来られ、その選ばれた人たちは一人も抜けることなく皆救われることを主張する。これを制限的贖罪と呼ぶ。ローマ5章8節に*わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました*
*ために*という言葉は原文で*代わりに*という意味だ。スポルジョン牧師は*十字架は神様の最高の考えであり神のすべての計画の中心である。神様の愛の最高峰が十字架*だといった。
1) 制限的贖罪の聖書的根拠
神様が万民を救う計画でイエス様を世に遣わされたならすべての人が救いを受けるべきであるが、実際には神様の計画通り万民がみな救われない。万一神の計画が挫折するとその方はそれ以上神様にはなれない。
神様が選んだ人たちだけを救うためにイエス様を世に遣わされ、計画通り選ばれた人たちは皆救われるときに神様の計画が成し遂げられるのである。(ヨハ4:39, ヨハ10:26-29;使徒2:41,47, 4:4, 9:40-42, 11:24, 16:5, 28:23-25,28) 参考にヨハネ17章はキリストの執り成しの祈りは制限的でありその贖罪の範囲も制限的である。次の聖句は制限的贖罪を裏付ける。
(1) *羊* (요10:11,15) 山羊ではない。我が主は羊のために死んだのであり、山羊のために死んだのではない。
(2) *その教会* (使徒20:28, エフェソ5:25-27)
(3) *自分の民* (マタ1:21)のために救われると証言する。
カルバンは*天の所有は神様の子供だけに与えられるのである(マタ5:9-10)と強調した。それだけでなく、一人子の体に繋がっていない子たちが子供の地位を持つと見るのは全く相応しくない*と主張した。ですから、キリストを信じる信仰が神様を信じる信仰に必須である。
ヨハネは確かに宣言する。*その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた*(ヨハ1:12)。我が主も確かに言われる。
*神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい*(ヨハ14:1)。厳密に言えば信仰がキリストから御父へと上って行くが、しかしキリストの言葉はこのような意味も含んでいる。
カルバン主義者たちはイエスキリストが神様の選択を受けた人だけのために死んだと主張する。これを制限的贖罪又は*特別贖い*という。即ち制限的救いとはイエスキリストが十字架で死なれた死が神様の恵みにより無条件的に選ばれた者だけに制限され有効であるという意味である。(エフェソ1:3-14)
この言葉は我が主イエスキリストの救いの御力を制限する意味ではない。それは永遠の能力があり無限の価値がある。ヨハネ17章6節に*世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました*と主は語っている。
マルコ2章14節にも*レビが収税所に座っているのを見かけて私に従いなさいと言われた。それによって主の弟子となる。それにもかかわらず万一この地球上にあるすべての人間たちを一人も抜けることなく皆救われるなら神様の絶対的主権は否定されてしまう。
私たちが現実的にも実際的にも制限された人だけが救われると見るとき贖罪も制限された証拠である。他の側面から考えてみると神様は絶対主権で救いを得る者と得られない者を神様が定めたのである。
ですから、救いから除外された人、即ち選ばれてない者又は将来滅びる者であることを知りながらキリストが彼らのために贖罪する理由がないのである。私たちイエスキリストが十字架で死んだのはキリストが担った群衆、その羊たち、創世の前に選ばれた民たちだけを救ったのである。
4. 不可抗力的恩恵(Irresistible Grace)
罪人である私たちは神の恵みを少しでも要求する権利がない。神様の価ない恵みがなければならない(ヨハ6:37-40)。
聖霊様は抵抗できない恵みを与え選ばれた者を救われる。救いを受ける資格のない罪人に抵抗のできない救いの贈り物を与えたのである。これは全的な神様の絶対的行いである。(使徒9:6, 16:14)
万一私たちが今も変わらず罪の捕虜として残っているならこれは十字架の道を拒否した人たちに与えられるだけである。不可抗力的恩恵とは有効的恵みを意味する。ウェストミンスト信仰告白書10章1節ではこう言っている。
1節には*神様は命に至るよう予定したすべての人をそして彼らだけをご自分が定め適当だと思うときに効果的に呼ばれ、その御言葉と聖霊によって彼らが生まれながらおかれている罪と死の状態から呼び出されイエスキリストによる恩恵と救いに導く。
ウェストミンスト小要理問答31問には効力ある呼ばれについて*効力ある呼びは神の霊が行うことなので私たちの罪と悲惨さを悟らせ、また私たちの心を明かし、キリストを知らせ、われらの意志を新たにさせ、私たちを勧め福音の中で価なく与えるイエスキリストを信じさせることである。
ですから、効果的な救いを得ることが出来るのである。また、実際に救いを得る者を神様は効果的に呼ぶのである。この呼びは救いに至るよう効果的に呼ぶことを意味する。スポルジョン牧師は*不信仰な者たちが熱心になり、不道徳な者たちが純粋になり、正直でない人たちが正直になり、不信心な者たちが恵みを受け、不正な人たちが清くなる。
悪の態度が突然止み、悔い改めた人たちが徳を積もうと努力する。自己満足に溺れた人たちが自分の無価値さを悟る。そして謙遜する。自分の堕落を諦め、神様に仕えることに幸せを見つける。
そして、例え滅びるにしてもキリストを信じれば絶対に滅亡しないことを強調した(テモテⅠ1:15) その理由は十字架の道が私たちをサタンから自由にさせたと主張した。なぜ、この世の多くの人たちが一部は信じ、一部は信じないのか?これは神様の主権に属するのである。
神様の聖なる目的と御旨に従って望んでいる人たちを定めた数を新生させるのである。生まれ変わること、即ち新生の恵みは有効的に呼ばれる恩恵と共に不可抗力的である。
パウロは*わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに*(ガラテヤ1:15)と証言している。我が主イエスキリストは救いの恵みだけを与えるのではなく、召し出して(ローマ8:28)義とし(ローマ8:30) 栄光を与える(ローマ8:30)
宗教改革者ジョンカルバンは*だれも自分をキリストの羊にはできない。キリストの羊になるのは神の恵みによるものだ*と言われた。即ち神様の主権は失敗ができなく、必ず成就されていくものである。
5. 究極的な救い(Perseverance of the Saints)
究極的な救いを聖徒の堅忍という。人間の本性が悪であってもキリストは神様に出て行く者たちを完全に救うことが出来る(ヘブライ7:25)
1) 究極的救いの特徴は何か?
(1) 一度救われたら永遠に救われる(ヨハ1:12; ローマ2:4)
(2) 誰も選ばれた民を神様の愛から引き離すことはできない(ローマ8:38-39; フィリピ3:6; ヘブル13:8)
(3) 救いを奪う者はない(ヨハ10:28, 18:9)
ですから神様の偉大なる神秘を認めるべきである。そして神様の救いの恵みを称えるべきである(エフェソ1:14)
ですから、罪人が神様に選ばれ新生し悔い改め、信じて義とされ、聖化の生活をしているうちにイエスキリストの再臨の日に復活して栄光となり神の国へ入ることを究極的救い即ち榮華という。ウェストミンスト信仰告白書17章はこのように叙述している。
*神様が自分の愛する者(イエスキリスト)によって受け入れ、効果的に呼ばれ、聖霊によって聖くなった者たちは恵みの場で全的に又は究極的に堕落することは無い。彼らは最後の日までその状態にいてまた救われるのである(フィリピ1:6; ペテロⅡ1:10, ヨハネⅠ3:9)
人間は汚れと罪によって死んだものである。ですから、神様の主権的な恵みでその聖霊を通して行われる新生を経験した者がキリストの贖罪を効果的に受け入れることが出来る。人間の善行や功労は到底自身の救いを完成させることはできないのである。
カルバン主義即ち改革主義の神学は明白に主張するのである。神様が新生した人は例外なく皆が救いを受けるということである。例え、罪を犯して堕落の道にいても恵みの道から完全に離れることはできない。結局は帰ってきて救いに至るクリスチャンの生活は罪に向かうことを好まない。
ヨハネⅠ5章4節に*神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です* では我らの中で神から生まれた者、即ち新しい命は勝利であり、いつでも負けないことを暗示するのである。
どうしてこれが可能であるか? これが神様の主権に属するからである。神様が選んだ民は神様の手の中にある。ですから、その民を奪う者がいないので神様の主権を掴んでいる人は最後まで守られるのである。
ですから、堅忍の恵みの確実性は神様の主権に基因するのである。
例え人が神様の恵みに協力したとしてもそれは原動力にはなれない。協力する力さえも聖霊様が与えることで可能になる。
宗教改革者ジョンカルバンは*イエスキリストはご自身の教会の中に入ってきた者たちを守る*といった。ユダ書24節にみると*あなたがたが罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方*と証言する。ここで守るということは*堕落から守る栄光に輝く方*を意味する。
我が主イエスキリストは救いを受ける民たちを守り栄光に輝かせる。そして *非のうちどころのない*宣言を受ける。即ち神様の法は私たちをそれ以上罪に定めない。むしろ私たちのために*非のうちどころのない者として栄光に輝く御前に立たせるために*
主の義の衣を着ることになる。
イエス様の弟子たちの中でトマスも疑いが多かった (ヨハ20:25-29) 愛弟子と呼ばれるペトロも主を3回も否定した(マタイ26:70-75)
このような事実は選ばれた者たちであっても一時的な弱さがあるとのことである。しかしトマスはイエスを我が主我が神と告白した(ヨハ20:28)
真のクリスチャンは恵みの状態からどんな場合でも離れることは無い。イエス様はこの御言葉を通して自身が自分の民を掴み、強い御手で守ることを意味する。ですから、私たちの空手を広げ空いた心を主に奉げよ! この時に神様の聖霊により我らを受け取ることになる。
これより大事な使命がどこにあるか? 即ち我らの最大の使命である。また、これがキリスト教の基本であり、改革主義の最も基礎教理である。ですから、神様の主権的な決定を信じ、救いの恵みにいつも感謝感激し、伝道しながら生きましょう!
全ての苦労は私がすべての栄光は神に!!!
ジョンカルバン(John, Calvin)